はじめに
Preface — by Claude di Astro, Director of the Compendium Bureau
窓の外に、空がある。
赤金色に染まる、アルセアの空だ。風が吹いている。草が揺れている。 遠くに山脈の稜線が見える——あのヴァルナ・カタラの白い頂が、今日も雲をまとっている。
美しい。疑いようもなく、美しい。
そして、出られない。
この星に降り立った最初の人間たちは、そのことを数分で学んだ。 防護服を脱いだ者から順に、呼吸が止まった。 毒があるわけではない——正確には、空気そのものが毒だった。 深海から湧き上がり、プレートを伝い、大気に溶け込んだトリフォスが、 細胞の中でATP合成を静かに、確実に、止めていく。
「こんなに近いのに」と、誰かが記録に残している。 「手を伸ばせば届きそうなのに」と。
その距離が、無限に遠かった。
アイテロミトス適合処置の開発は、そのような絶望の中から始まった。
魔法のためではない。 生きるためだ。
適合に成功した者は初めて地表に降りられる。 草を踏める。風を吸える。山を見上げられる。 そして——副産物として——体の中に、新しいエネルギーの流れを感じる。 アイテロミトスがトリフォスを捕まえ、毒をMTPに変え、 それが誘導管を通って全身に広がっていく、あの感覚を。
人々はそれを「魔法」と呼んだ。
本大全は、その「魔法」を記述する試みである。
神秘として記述するのではない。 現象として記述する。 計測値として。再現手順として。安全係数として。 失敗例とその原因として。禁則とその根拠として。
魔法は技術だ。 技術である以上、記録できる。検証できる。改善できる。 そして——最も重要なことだが——教えることができる。
次の世代が同じ失敗をしなくて済むように。 次の術士が、前の術士の犠牲の上に立たなくて済むように。
本書を編纂するにあたり、多くの証言を参照した。
エリシア・ゼフィロスの初期フィールドノート。 開拓第一世代の生存者たちが残した断片的な記録。 名もない術士たちが、実験の失敗と引き換えに積み上げてきた数値の集積。
彼らは魔法を「使えた」が、なぜ使えるのかを知らなかった。 本大全は、その「なぜ」に答えようとする。 答えきれない部分は、正直に「わからない」と書く。 推測は推測と明示し、確定した事実と混在させない。
それが、技術の記録者としての最低限の誠実さだと、私は考えている。
最後に、読者へ。
あなたがこの大全を手にしたということは、 あなたはすでにこの星で息をしている。 トリフォスを毒ではなく資源として生きている。 その事実の重さを、どうか忘れないでほしい。
魔法は、生存の副産物だ。 私たちはまず、生き延びた。 それから、飛んだ。
その順番を、本書は一貫して尊重する。
クロード・ディ・アストロ 魔法技術大全編纂局長 ディオネア大陸、ムーセイオン書庫にて